移民で活躍した今帰仁人

  平成27年(2015年)11月8日、平良新助翁の生誕地に新助翁の銅像と「ひやみかち節」の歌碑を建立し、目的を達成した「平良新助翁記念碑建立期成会」は解散されました。その後、新助翁の生誕地を「ひやみかち公園」と命名し、平成29年9月28日「ひやみかち公園」の管理・運営・活用を目的とした「ひやみかち今帰仁・移民さくらの会」が立ち上がりました。私は、記念碑建立期成会から引き続き事務局長を務めることになった大城茂樹と申します。

 今年(2022年)は、10月31日から11月3日まで「第7回世界のウチナーンチュ大会」が開催されます。当山久三と平良新助が切り開いた海外移民の道から世界中に移り住み県人会に所属しているウチナーンチュは、現在42万人を超えるそうです。
 前回の世界のウチナーンチュ大会期間中に、今帰仁村から移民していった方々を歓迎する催し物がコミセンで開催されました。今年も同じように開催されるか分かりませんが、開催されるのであれば前回以上に多くの村民が参加し、世界のウチナーンチュ大会に来られる今帰仁村出身の方々を歓迎し、交流を深めることができればと思います。歓迎ムードを高めるのに役立ててもらえればと考え、このホームページを通し、私の知っている範囲で移民して活躍しているナチジンチュについて紹介していきたいと思います。
                               令和4年3月30日
 平良新助翁のことを多くの方々に知ってもらおうと大里康永著「平良新助伝」をもとに紙芝居を作成しました。今帰仁村文化協会に所属する「しまくとぅばで遊ぼう会」の皆様が、村内の子供たちに読み聞かせを行い、新助翁の功績や、海外移民についての知識を広げてくれました。今回は、この活動をさらに深め世界のウチナーンチュ大会に参加したいという気持ちをナチジンチュに持っていただくため、このホームページを通して今帰仁から海外に雄飛していった先輩方の活躍を紹介していこうと思います。
 新助翁が北米に渡りどのような活躍をしたのか知りたくて資料を探していたところ、私の小学校時代の恩師である兼次幸子先生から、義父である兼次忠七郎さんが所蔵していた「北米沖縄人史」をいただきました。そこには、新助翁だけでなく今帰仁から北米に移民していったナチジンチュの活躍が数多く記されていました。その活躍の一端を、北米沖縄人史からの抜粋をもとに、私なりの感想を織り交ぜながらホームページを通して紹介していきたいと思います。
                                令和4年3月31日

 これからしばらくは、1981年(昭和56年)発行の「北米沖縄人史」に登場する今帰仁出身の先駆者の活躍について紹介していきます。初めに先駆者の皆さんのプロフィールから紹介していきます。

北米移民で活躍した今帰仁の偉人達

【平良新助】

1876年(明治9年)9月4日、謝名(現在は越地)に生まれた。          1897年(明治30年)奈良原知事の開墾政策強行に、今帰仁村民の先頭に立って真っから反対した。奈良原知事銅像建設にも反対し、謝花昇自由民権運動並びに参政権獲得運動における最年少の同志として活躍した。                      1901年(明治34年) 当山久三の使者として第1回ハワイ沖縄移民の状況調査のためハワイに渡航、現地報告の使命を果たしたうえ、そのままハワイに留まり、1904年大陸に転航、ニューメキシコ州ラトンに至り宅地を購入して落ち着いた。

1913年5月に帰郷して金城つると再婚。先妻との長男一三を連れて翌年帰米した。

1919年ニューメキシコ州を引き上げて、加州ブローリ市に転住、洋食店を経営。一方で

 は県人団体のために活動奉仕した。

1923年太田蒲戸、奥武朝道が沖縄を訪問した。彼らは県社会、県民の窮状と海外にいる

 同胞の生活を比較し、両者の間に大きな開きがあることを認めた。沖縄は海外発展必要

 があり、その為には移民政策の確立、移民地の研究、移民統一機関関、海外協会の設置

 県民県民有志に図ったが実現せずに帰米した。

1924年新助が郷土訪問の為ロサンゼルスに来た。それを聞いた太田は早速新助に会い協

 会設立運動を頼んだ。熱血児の新助は直ぐに承諾し、熱い握手を交わして別れた。帰郷後

 新助は協会設立のため奔走、熱誠は官民の肺腑を突き、自らも千金を費やして必死に協会

 設立に奮闘したので成功し、1924年11月17日に県会議事堂に於いて沖縄海外協会

 は発足式を挙げた。

1953年11月にアメリカを引き上げて帰郷。同年12月10日沖縄着

※ 帰国する前、米軍人として沖縄に駐留していた息子の東虎から、灰燼に帰した沖縄の惨

 状をき、郷土の復興に立ち上がるウチナンチュを奮い立たせるため

 「七転び 転で ひやみかち 起きて わした この 沖縄 世界に 知らさ」    

 の「ひやみかち節」の琉歌をロサンゼルスで詠む

1965年11月3日、沖縄海外移民の実質的な推進者としての功績によって、琉球新報賞

 を贈られた。彼は、村や部落の再建向上のために、学校やいろいろな行事に協力貢献し、

 村民の信望の的となる。

  彼は80歳を越してから、村有林周辺50万坪を森林資源開発の目的で村に30か年契

 約借地を申し込んだが、死亡後まで契約期間が残るとの理由で村会の反対で中止となっ

 た。

1970年11月9日、最後まで大望を抱き意気盛んな平良新助翁は、自宅で波瀾の生涯を

    閉じた。享年94歳。

                 大里康永著「平良新助伝」より抜粋  幸地新政記

【上間精十郎】

1879年(明治12年)11月5日、今泊に生まれた。沖縄県師範学校を卒業、直ちに母

 校国頭郡高等小学校訓導として赴任。教鞭をとった。彼の体操の号令は、名護の町中まで

 轟いたと言われるほど有名であった。

1903年 留学生としてサンフランシスコに上陸。南下してロサンゼルスに落ち着いた。

1923年 初期の黎明会会員となる。

1926年頃 アリゾナ州フィニックス市に移転。農業経営の傍ら日本語学園長を務めた。

 一方、佐川喜一と協力して、アリゾナフィニックス日本人フリーメソジスト教会創立の中

 心人物となった。

1936年 彼は再び加州ロサンゼルスに移転。

1941年5月12日沖縄海外協会南加支部と在米沖縄県人会との合同後も「海協」側の非

 合同派の会長として日米戦勃発まで活動した。彼は、終戦と共にロサンゼルスに帰還。日

 本人フリーメソジスト教会の伝道師として活動、一方では沖縄県人の間に「祈りの会」を

 設立して伝道に努めた。上間精十郎は、郷里の師範学校時代に体操で鍛えた健康体であっ

 たが、年齢には勝てず、2ヵ年間ほどホームで療養中のところ、ついに1963年8月

 16日、エルセラノ病院で84歳の生涯を閉じた。

平良幸有

1883年(明治16年)今帰仁村で生まれた。

  平良幸有も、先覚者安仁屋政修の北米通信に刺激された一人として,1903年の秋、

 7名の県人と同船してハワイを経て、サンフランシスコに上陸した。当時20歳。彼は丁

 度ニューメキシコ州ラトン市のエレクスクラブから適当な仕事の口がかかってきたので

 これに応じて同地へ行った。しばらくして彼は同州ギャラップ市に移住。第二の故郷とし

 てこの地で一生を送った。職業は、洋食店とホテル経営。彼は地元日・白人からの信望が

 厚く職業は大繁盛。日米戦争勃発と同時に、政府発行の国際証券(ワ―ポンド)購入の第

 一人者として地元英字新聞に特筆大書された。日本人で帰化市民権を受けた第一号として

 も讃えられた。終戦直後の沖縄救援復興運動には、当時の少ない在留県人の代表格の気持

 ちで、進ん先頭に立って、ギャラップ日本人キリスト教会と協力して一般日・白人に訴

 えた結果、ギャラップ、アルバカアキ市に亘り沖縄救援の声が蒼然と起こり、救援基金の

 70%を「沖縄救援」に、30%を「海南津波」にと茂川牧師を通じて連盟に届けた。 

                               (救援ニュース4号)

  なお、平良は、全米沖縄救援復興野游会にも欠かさず寄付金を送っている。キカ夫人

 の間に二男二女、孫8人あり。

1959年7月17日ギャラップ病院で75歳の生涯を閉じた。

(幸地新政記)

【兼次忠七郎】

1883年(明治16年

 仲宗根に父、兼次忠八郎の次男として生まれる。県立師範学校「単位課」を卒業後、

護小学校、今帰仁高等小学校に教職す。

1912年(大正元年)

妹はな、はなの夫比嘉才次郎、従弟金城寛五郎と共に南米ペルーに渡る。

1918年

 北米行きを決行する。途中メキシコ国サリナ・クルース市で同郷の人幸地新政一行に

然出会い北米入りまで苦難を共にした。その九死に一生を得る困難は、幸地新政の体

験記「移民哀話」によく書かれてある。

1940年までインペリアル平原で農業を営み、ロサンゼルス市へ移転し、ホテル業へ入

  る。第二次大戦中は、義弟山川喜太郎家族と共に自由立退きでコロラド州リットルトン

  へ移住。共同で小作農を始める。キャベツ、キャロツ、ターニップ等耕作した。

戦後は直ぐロサンゼルス市へ帰りホテルを経営する。

兼次は、戦前インペリアル平原沖縄海外協会会長、戦後は沖縄救済連盟委員長を務め、

 県人のためよく尽力した。

1952年帰国

1957年10月郷里で他界した。

小橋川次郎記

【幸地新政】

 1889年(明治22年) 2月27日今帰仁村に生まれる。

 1918年3月

   安洋丸にてメキシコ国サリナクルース港に上陸。決死的艱難を経て北米に入国。カレ

  キシコ、スタクトン、フレスノ等で農園に就労。後にニューヨーク州にて家庭働き、戦

  後ロサンゼルスにてガーデナー業に従事。北米青年会、沖縄協会会員。沖縄救済連盟、

  復興連盟の報道部長。ユニークな沖縄救済のニュースを全米各地や南米等に報道する。

  北米沖縄クラブ副会長。南カルフォルニア日系人庭園業組合機関紙編集同人、ニューヨ

  ーク北米時事編集同人。南カルフォルニア日系社会福祉権擁護会初代会長に就任し同協

  会の発展に努める。

1945年10月

米国軍属(OSS)として日本の原爆被害民情調査団員として渡日、印度、ビルマ、

中国戦線に転出。中国雲南州にて終戦となり、米国軍用機にて帰還。 

 1946年1月

ビクトリア号にてオレゴン州ポートランンド市に上陸。政府の費用により政府に報告

する。

1946年12月

前期の功績により米国政府より感謝状を授与される。

幸地は、自費にて全米各地を駈け回り、沖縄救済復興連盟の組織づくりを仲村信義と

共にやり遂げ、その記録保持等の功績により、北米沖縄クラブより感謝状を贈られる。

幸地は、文筆に秀で、数々の記事を発表したが、「移民哀話」は移民地文芸として高

く評価され、小橋川ベン(三世)が英字出版して、広く2・3世の間に読まれている。

沖縄の平和的発展を生涯の願いとしている。趣味は書道、川柳。

宮城嗣夫記

【山川喜太郎】

1892年(明治25年)7月4日古宇利出身。父、山川喜助の長男として生まれる。

県立農林学校を卒業後、本部町崎本部小学校で教員後、福岡師団に入隊、日独戦で満

州に出征し叙勲した。

1918年

農事視察で南米ペルー国に渡る。同年兼次忠七郎の妹はなと結婚し、翌年2人は北米行

を決心し、同村の上間正之外他県人29名(女性ははな一人)と共にペルーを出発。途中

幾多の苦難を乗り越え、命からがらで7か月間の艱難辛苦を打破して1919年10月北

米に入る。兄兼次忠七郎のいるインペリアル平原にて農業を営みキャンタロープ、トマト

ピー、レタス、イチゴ等耕作した。その間2男3女が生まれた。

1927年

ロサンゼルス市に移転し、農産商、ホテル等を経営する。戦時中は自由立退きで一家コ

ロラド州リットルトンへ移転し農業を営む。戦後1945年ロサンゼルスへ帰り、ホテル

を経営する。

1955年

夫婦ともに市民権を獲得、米国市民となった。

1956年

春頃から病気(肺がん)に襲われ、40余年ぶりの故国訪問の計画も中止し闘病生活に

入る。闘病中にペルーのリマ市から弟山川喜慶、ハワイから従弟山川喜信両名が見舞いに

訪れ、40年ぶりの再会を喜んだ。

1957年4月1日没した。

山川喜太郎は1937,38,39年の3年間沖縄県人会長及び40年に沖縄協会副会

長を務め、会のためよく尽力した。戦後沖縄から来る指導員、視察員を時間をいとわず案

内した。又、郷里の母校等へ多大な物品を援助した。

  夫人はなは健在で、1978年7月8日、子女の想いで、新旧の友人が集まり、84歳

の誕生日のサプライズ・パーティーを持って祝った。

はなは沖縄クラブ会員としてよく活動し、1971年1月同クラブでは感謝状と記念品

を贈呈した。はなは趣味に沖縄音楽と庭園を楽しんでいる。

                      1980年3月27日 小橋川次郎記

【上間政之】

1932年 

青年会定期総会に「嵐山事件に対する緊急動議」を提案

1934年 青年会定期総会  議長を務める

1949年6月5日ロサンゼルスで「第1回在米沖縄復興連盟定期総会」を開催。兼次忠七

 郎、山川喜太郎、幸地新政、上間精十郎、平良新助らとともに出席。ハワイ沖縄更生会常

 任幹事の湧川清栄(勢理客)が「沖縄復興と琉球大学の創設について」の演題で講演会を

 行ったことが報告された。

【平良一三(タム)】

 1901年(明治34年)2月15日謝名に生まれた。一三は、1914年1月、13歳

  の時、父が帰国して、義母と共に父に連れられて渡米。ニューメキシコ州ラトン市の父

  の家に着いた。4年後の1918年、彼は父母に先んじて加州ブローレ市に移転。ブロ

  ーリユニオンハイスクールを卒業。更にウッドベリービジネスカレジに学んだ。その後

  ブローレ市で雑貨商、グロサリー店を経営。県人農家の不景気の時などには,いろいろ

  便宜を計ったりした。一方では、県人団体の会計を務めることもある。

   日米開戦と共に、アリゾナ州ボストンの収容所に立退き、終戦とともにロサンゼルス

  に帰還。直ちにホステルをレントして経営。また、ニューヨークホテルを購入して経

  した。ニューヨークホテルは、小東京の中心地、目抜きの場所に建った便利なビルで、

  日本にもその名が知られ、年中日本からのお客で繁盛している。

    一三は、終戦直後の沖縄救済復興基金の寄付の外、副会長を務め、また自分が経営

  しているホステルやニューヨークホテルで、収容所から帰還の人々や、沖縄から続々

  米の国民指導員・視察員・学生等の世話や送り迎え、或いは家庭に招いて歓迎パーティ

  ーを催すなどひとかたならぬ努力をした。

   なお、彼は他にもホテルや病院、商会等の貸家を所有しており、小東京では日系人

  に指折りの地元資産家として、公共のためにも奉仕している。

   春子夫人との間に一男一女、孫三人あり、長男アルバート弘は、父と共同の小壮実

  家として活躍している。

                               幸地新政記

 北米で活躍した今帰仁出身の履歴

1903年(明治36年) 

上間精十郎、平良幸有サンフランシスコに上陸。

1904年(明治37年)

平良新助ハワイからサンフランシスコに上陸。

1906年(明治39年)4月18日

サンフランシスコを未曽有の大地震に見舞われる。被災した県人の多く(十有余人)は

鉄道会社が無償で提供したロサンゼルス行きの汽車に乗り、ロサンゼルスに移住。

1906年10月1日 

サンフランシスコ市教育課が市内小学校に通学する日本人学生を退学させ、隔離学校に

入学させる。保護者は日米条約違反として合衆国巡回裁判に起訴した。ルーズベルト大

統領は、日本移民のハワイからの転航禁止を条件に日本人学童を復学させた。これによ

り、ハワイ、メキシコ、カナダ等から米本国に移入することが禁じられた。

1918年  ≪ペルーからの入米者14名≫

  今帰仁村出身者は兼次忠七郎、山川喜太郎、妻ハナ、金城寛五郎、上間政之である。

「彼らは移民として最初ペルーに渡り、そこでアメリカ入国を志してペルーを出発、メキ

シコを通過して入米したのである。その途中メキシコで革命にあったり、山賊に会い金を

やって命からがら逃げた。また危険なコロラド河を渡り、歩いても歩いても果てしなく続

く砂漠も横断した。それこそ命がけで入米に成功したのである。・・万難を排して入米に

成功した人達は、よく辛抱して懸命に働いたのでみな良い成績を上げた・・・」

1924年(大正13年) 

平良新助帰郷。帰郷に際し大田蒲戸、奥武朝道から海外協会設立の使命を託された。東

西奔走し、自らも千金を通して奮闘し、11月17日、県議会において沖縄海外協会が設

された。

1925年5月

南加沖縄県人会を解消し、海外協会支部を満場一致で設立。

1926年 

在米沖縄青年会が設立される。

1929年 

伊波普猷 ハワイ講演後サンフランシスコに上陸し講演会を行う。インペリアル・バー

レーのブロリー市で講演。沖縄海外協会設立の功労者平良新助の居住地で、沖縄で海外協

会設立当時の発起人の一人でもあったよしみでブロリーを訪れたのである。

1930年 

山川喜太郎青年会定期総会で図書部長に選出される。

1931年 

青年会大演説会で「青年会の基金」について平良新助が演説。

1932年 

  青年会定期総会で上間政之が「嵐山事件に対する緊急動議」を提案。「郷里沖縄に於

いて県当局がライ病保養院を羽地、名護、今帰仁の3カ村の水源地である高い嵐山に強

制的に建設しようとする事に対し主として右三か村の青年が中心となり反対同盟を組

して反対運動の最中なので、提案者の動議について討議の結果、県当局に対しては抗

文、反対同盟に対しては激励文を送る事に可決。また、反対同盟へ運動資金を送る事

可決。

933年 

青年会ピクニック

  あいさつ  幸地新政  二世祝辞  平良東虎

  演芸    かえるつばめ  山川清子

  バイオリン  山川健次   滑稽カッポレ 山川ジョー

  運動会商品係 平良新助(青年会最年長)インペリアル・バーレーから駆けつけて演芸

会では太鼓を打ちまくる。 上間政之も参加

1934年 

青年会定期総会  上間政之が議長を務める。青年会を解消し、「在米沖縄県人会」と

改称することを決議。これまでの運動を進めるため実行委員会が結成され、実行委員に、

幸地新政、山川喜太郎らが選出される

1935年 

「謝花昇銅像建設寄付金募集」が取り組まれる。兼次忠七郎、幸地新政、山川喜太郎、

山川ハナらが寄付者名簿に名を連ねる。故農学博士謝花昇氏銅像建設発起人一同に代わ

平良新助として帝原沖縄海外協会支部から1108円46銭の寄付あり。

  同年開かれたピクニックで平良新助が祝辞を述べる。

1937年 在米沖縄県人会総会で山川喜太郎が理事長挨拶を行う。県人会子弟第一号とし

  山川清子の大学卒業を祝う。二世たちで独立した団体「沖縄県人ジュニア」が結成さ

 れ、山川健次が会計に選出される。

1938年 在米沖縄県人会総会で山川喜太郎理事長に再任される。

1939年 在米沖縄県人会総会で山川喜太郎理事長に再任される。

  ピクニックでハイスクール卒業生として初めて山川健次に贈呈。「先亡者慰霊追悼会」

で上間精十郎が司会を務め、平良新助が慰霊追悼の辞を述べる。また、兼次忠七郎、上

政之から慰霊追悼の電報があった。

1940年 山川喜太郎副理事長に選出

  海外協会南加支部の会報に幸地新政の「太平洋の危機と在米同胞」と、上間政之の「着

物を脱いだ話」が掲載された。

1941年 北米沖縄協会が創立され、副会長に山川喜太郎が選出される。合同に反対し海

協支部の存続を希望する人々は、上間精十郎を会長に据え、海協支部を継続させた。

  12月7日 日本軍の真珠湾攻撃が勃発。日米戦争に突入。戦争に対して北米沖縄協

 の態度を鮮明にするための声明書発表のため「声明書草案」作成のため特別委員会を設

 委員に幸地新政ら7名の志願者で結成。 

1942年 幸地新政議長に選出され、戦時対策評議委員に幸地新政、上間政之、兼次忠

 七郎、山川喜太郎らが選出される。戦時対策実行委員に山川喜太郎が副委員長、会員審

 査委員に幸地新政、山川健次ら21名が選出される。

 2月19日、大統領令が発令。自発的に奥地へ立ち退くよう奨励される。山川喜太郎、

兼次忠七郎らは、コロラド州デンバー市近くに移住し、農業に従事。平良新助は家族とと

もに、12月アリゾナ州ヒラリバーの強制収容所に収容される。収容された日本人は

13348人と記されている。

1945年 8月15日日本は「ポツダム宣言」の無条件降伏を受諾し日米戦を終結させた

  10月「原爆被害民情調査団」の一員として幸地新政と仲村信義が来日。仲村は関東

 ら東北を、幸地は関西から九州の調査を担当。

  兼次忠七郎デンバーから帰還し、アーリングトンホテルのレント経営を始める。

1946年 仲村信義、幸地新政は、祖国の戦災状況を具体的に報告した後、「終戦直後の

日本における沖縄県人情勢報告」を自費印刷し。県人の多い北米各地とハワイ、南米諸国

メキシコ、カナダ各地に配布。救援運動を始めるため、その手始めに「沖縄救援ニューヨ

ーク委員会」を発足する。沖縄救援運動の認可を得るため海軍省訪問。軍政長官に

(1)沖縄救援運動認可の件

(2)救援物資を無料で沖縄へ輸送の件

(3)北米からの手紙と南米からの手紙をお取次の件

特に南米の沖縄同胞は永年沖縄との音信途絶を心配していることを付け加えて要請し

ところ軍政長官は、すべての要請を快諾。仲村信義、幸地新政は沖縄戦災救援運動の全

国組織結成に向け北米各地に出向く。リルトンで農業に従事していた今帰仁出身の仲宗根

カナの働きかけにより「デンバー委員会」を結成。ロサンゼルスでは、兼次忠七郎の経営

するア―リングトンホテルを根城にして運動を進め「救援ニュース」の発行も進める。

月23日、ロサンゼルスで「沖縄戦災救援連盟の創立大会を開催。幸地新政が経過報告の

後、報道主任に任ずる。

7月7日「ロサンゼルス委員会」が結成される。委員長に兼次忠七郎、副委員長に山川

喜太郎外3名、書記に幸地新政外7名、救援係に山川健次、山川ジョー外10名が

選出される。

1947年3月11日 ニューヨークで「第1回沖縄戦災救援連盟定期総会」を開催。副会

長に兼次忠七郎外4名、理事に上間精十郎、平良新助外9名、報道部長に幸地新政が選

される。

4月14日ロサンゼルス委員会古着類の荷造り発送を行う。山川喜太郎、幸地新政、

次忠七郎他4名が荷造り積み出しに奉仕する。

 ロサンゼルス並びにソーテル委員会より7029ドル71仙の寄付

1948年5月2日ロサンゼルスで「第2回沖縄戦災救援連盟定期総会」を開催。理事に兼

次忠七郎、山川喜太郎、幸地新政。上間精十郎、平良新助ら今帰仁出身が名を連ね、副

長に兼次忠七郎、報道部長に幸地新政が再任される。

1949年6月5日ロサンゼルスで「第1回在米沖縄復興連盟定期総会」を開催。

  兼次忠七郎、山川喜太郎、幸地新政、上間精十郎、平良新助、上間政之らが出席。

   ハワイ沖縄更生会常任幹事の湧川清栄(勢理客)が「沖縄復興と琉球大学の創設に

  いて」の演題で講演会を行ったことが報告された。

1950年11月19日ロサンゼルスで「第2回在米沖縄復興連盟定期総会」を開催。

  幸地新政、上原政之、山川喜太郎、上間精十郎、兼次忠七郎、平良新助らが出席。

 合同開催されたロサンゼルス支部役員に、上間精十郎が副会長に、兼次忠七郎が会計監査

 に、平良新助と上間精十郎が相談役に選ばれる。

1951年2月11日「第3回在米沖縄復興連盟定期総会」を開催。

  上間精十郎、山川喜太郎、幸地新政、兼次忠七郎らが出席。副会長に山川喜太郎、会

 報部副部長に幸地新政、顧問に上間精十郎が選出される。

1954年2月10日「在米沖縄復興連盟定期総会」幸地新政が提案した下記の理由により

会名を「北米沖縄クラブ」に改称。「今や終戦すでに9か年を経過し、郷土沖縄の復興も

その緒につき、一方本会二世会員の成長と一世帰化市民の増加等時代に適応して特殊的な

名称から一般的な会名の下に、より広汎に会員を吸収して活動の主体を地元米国におき、

併せて沖縄の復興建設の助成に寄与せんとするにある」。北米沖縄クラブの副会長に山川

喜太郎、会計に平良タムらを選出。新しく「婦人部」が設置される。

  北米沖縄クラブは、その後も二世が活動の中心を担い、北米における県人組織の発展に尽くしている

  1981年11月30日に北米沖縄クラブは、「北米沖縄人史」を発行

  この資料は「北米沖縄人史」から抜粋してまとめたものである。

 

戦後沖縄の復興を支えた北米移民の先駆者たち

 元沖縄県知事大田昌秀氏が、那覇出版社「季刊沖縄」で「~戦後壊滅的打撃を被った沖縄

を物心両面から支えたものも移民先からの惜しみない支援であり、当時の沖縄県歳入総額の

66%に相当する海外からの送金なくして沖縄県の復興と今日の発展は考えられない」と報

告している。

北米から故郷沖縄の復興支援を呼びかけ、実現に導いたのは、先に書いたナチジンチュの

北米移民先駆者たちである。先に紹介した「北米移民で活躍した今帰仁の偉人達」と重複

する部分もあえて記載したい

1945年10月、中村信義(東村)と幸地新政は、米政府が組織した「原爆被害民情調

査団」の一員として来日した。幸地は、福岡市に収容されていた南洋ダバオからの引揚げ

難民を見舞った。そこで、引揚難民の燦燦たる状況を目の当たりにし、引揚難民を沖縄に

返すため日本政府やマッカーサー司令部に直訴したが許されなかった。この上は1日も早

く帰米して、在米同胞と共に沖縄救済運動を起こすことが急務であると考え、ニューヨー

クで発行している「北米新聞」に9回にわたって難民の惨状を報道した。さらに、帰米後

に発行した「終戦直後の日本における沖縄県人情勢報告」で次のように報告した。

 「今度の戦争で県民が払った二重三重の犠牲は現地に来て実に想像以上で、特に疎開学童

や南洋、満州引揚げ難民等の生活状態は実に暗澹たるものであります。・・・本土在住20

余万人の我が沖縄県民は、今やこの灰燼の中から「沖縄人連盟」を組織し、「自由沖縄」紙

を発行し民主主義新沖縄建設を目指して立ち上がりつつあります。そして、広く海外の県人

同胞に向かって協力を訴えています。われわれ海外同胞は今こそ、郷土の民主的建設と難民

救済のために広く北米、南米、ハワイその他を打って一丸とした力強い活動を始めるべきだ

と信じます。特に、本土と切り離された沖縄戦災民への物質的救援、輸送等の具体的方法は

当地でも研究中でありますが、各地におかれてもそれぞれ実行委員をあげて研究し、同時に

衣類・金品を集める運動は直ちに開始する方がよいと思います。」

                   1946年3月1日 連絡係 中村信義 幸地新政

呼びかけに応じニューヨーク市に住居している沖縄系人は、早速「沖縄戦災救援ニューヨ

ーク委員会」を結成する。この委員会は、沖縄救援運動の認可を得るために幸地と仲村を

代表としてワシントンに派遣し、太平洋諸島軍政長官W・F・ゼニングス海軍大佐に次の

3点を要請した。

(1)沖縄救援運動の認可。

(2)救援物資を無料で沖縄に輸送。

(3)北米からの手紙と南米からの手紙を沖縄に取り次ぐ。

特に南米の沖縄同胞は、永年沖縄との音信杜絶で心配していることを付け加えた。要請を

受けた軍政長官は、この申し出を快く承諾し、自筆の紹介状を作成して幸地と仲村に渡し

物資の輸送など全面協力を約束してくれた。

幸地と仲村は、沖縄戦災救援復興運動の全国組織を結成するため各地を訪問した。デンバ

ーでは仲宗根カナ(今帰仁村)を中心に有志が集まりデンバー委員会を結成した。ロサン

ゼルスでは、兼次忠七郎(今帰仁村)を委員長にロサンゼルス委員会が結成された。ロサ

ンゼルス委員会は、アメリカの一般国民をも巻き込んで沖縄戦災難民救援義捐金募集を始

めた。集められた古着類は、リッチモンドの海軍倉庫から積み出し沖縄に輸送した。

1947年ニューヨークで「第1回沖縄戦災救援連盟定期総会」を開催。副会長に兼次忠

七郎外4名、理事に上間精十郎、平良新助外9名、報道部長に幸地新政が名を連ねている

沖縄戦災救援復興運動の取り組みは南米・ハワイに広がり、海外からの沖縄救援運動の大

きなうねりを作り出したのである。沖縄でよく語られているハワイからの「豚、太平洋を

渡る」も、リッチモンドから出向したアメリカ海軍の輸送船だと考えらえる。

  しかし、このような莫大な義援金や物資を送ってくれた海外のウチナーンチュたちも決し

て豊かな生活をしていたわけではないのである。特に北米に住むウチナーンチュたちは戦時

中、血のにじむような思いで築き上げた家屋敷や財産を敵国人としてすべて没収され、捕虜

収容所に収容されていたのである。終戦とともに釈放され、そこから生活の再建を図るため

死に物狂いで働いている最中だったのだ。他人のことをかまっている余裕など無い状況にも

拘らず、故郷沖縄のためにはと義援金や物資を拠出していたのである。海外に住むウチナー

ンチュのチムグクルとユイマールの心の強さは、「すごい」の一言に尽きる。

 また、新助と軍人として沖縄に駐留していた息子の東虎も戦後沖縄の復興に大きな役割を

果たしている。当時、沖縄民政府に勤めていた當山正堅は、東虎を通し北米沖縄県人会の役

員を務めていた新助の存在を知り、北米在住者からの資金援助など次々と要請してきた。要

請を受けた新助はすぐに動き、北米にいる関係者に郷土沖縄からの要請を伝えたのである。

當山の手紙には、在米外国伝道協会が救いの手を延ばしていることに対する感謝と、沖縄戦

災復興救済連盟幹部に対し沖縄赤十字社と赤十字病院設置のための資金援助についての要望

もあった。この中にある在米外国伝道協会については、新助が今泊出身で日本人フリーメソ

ジスト教会の伝道師をしていた上間精十郎に相談して実現したものだと言われている。当

時、上間も北米沖縄県人会の重鎮として救済運動にも深く関わっていた。新助から相談を受

けた上間は、高齢で体調も優れなかったため、自分の代わりに数名の伝道師を沖縄に派遣し

た。この伝道師たちが沖縄各地に散らばり、戦争で荒れ果てた人々の心を救ったのである。


    アメリカと日本の架け橋・湧川清栄

 次にハワイで活躍し、戦後沖縄の復興と教育の振興に尽力した「湧川清栄」について「ア

メリカと日本の架け橋・湧川清栄」から抜粋した内容を紹介したい。

【湧川清栄氏関係年表】

1908年(明治41年) 6月10日に父清助、母カナの5男2女の末っ子として今帰仁村勢理客に生まれる

1920年(大正9年)  長兄清盛の呼び寄せで3年前にハワイに渡っていた母に呼ばれ

     12歳の時ハワイに移住

1925年(大正14年) カウルウェラスクールを卒業。卒業生代表になる

1926年(昭和元年)  布哇中学校(日本語学校)を卒業。卒業生代表

1927年(昭和2年)  19歳で「学生評論」を創刊

1928年(昭和3年)  20歳でマッキンリー。ハイスクールを卒業しハワイ大学に入

     学。その年、ハワイを訪れた伊波普猷に会う

1931年(昭和6年)  23歳の時、全校最優等生としてハワイ大学を卒業。東京帝国

     大学入学のため来日。比嘉春潮と知己を得る

1932年(昭和7年)  東京帝国大学留学からハワイに戻り、ハワイ大学大学院に籍を

     置いて『日布時事』で働く

1933年(昭和8年)  日本、旧満州、北京などを訪問

1936年(昭和11年) 28歳で東洋書院を開業

1940年(昭和15年) 32歳の時、ホノルル旅館を譲り受け、昭和55年頃まで経営

     布哇沖縄県人会が発足。常任理事に就任。

1941年(昭和16年) 日本軍が真珠湾を攻撃。日米開戦に突入

1942年(昭和17年) FBIと軍部が来て拉致される。抑留船で米本土に移送され、

     ニューメキシコ州ローズバーグ収容所に収容される。ルーズベルト大統領に抗議

     の手紙を出し、3か月後に釈放されシカゴに行く。

1943年(昭和18年) シカゴ大学で日本語を教える。ハワイで母カナ、78歳で死去

1944年(昭和19年) コロンビア大学に移る。ハーバード大学に軍事民生官養成日本

     語教師兼研究員として招聘され、「日本の小作制度」に関する論文を書く

  45年にハワイに戻る。46年に日本の小作制度の論文がハバード大学の日本

  展望に掲載される

1947年(昭和22年) 沖縄救済更生会を結成。39歳で代表者に就任

1948年(昭和23年) 「沖縄大学建設」の件でワシントンを訪問。

沖縄救済更生会による第1回留学生がハワイに到着

1949年(昭和24年) 沖縄への送金開始。送金の世話を引き受ける

1953年(昭和28年) 「時代の先駆者當山久三―――沖縄現代史の一節」を発刊

     布哇報知社に入社1年後、ハワイタイムス社に入社

1961年(昭和36年) 比嘉春潮、中原善忠両氏がハワイ大学東西文化センターでの沖

     縄研究のためハワイを訪れる

1966年(昭和41年) 「時代の先駆者當山久三」を原作にした映画「沖縄移民の父・

     當山久三」(山城茂監督)が完成

1969年(昭和44年) 61歳でアメリカ国籍を取得

1970年(昭和45年) ハワイタイムス編集長に就任。75年に退社

1976年(昭和51年) 在ハワイ日本領事館の顧問に就任

1978年(昭和53年) ハワイ日系人援護会を設立し、初代会長になる

1985年(昭和60年) 農政研究センターの招きで来日し、岩手、新潟を視察。関西、

     沖縄も訪問。関西県人会有志の歓迎会で講演する。外務省から官約移民百周年祭

     功労者に選ばれる

1989年(平成元年)  琉球大学へ蔵書1万7千冊、今帰仁村に蔵書1528冊を寄贈

     沖縄タイムス賞を受賞

     琉球大学の招きで、来沖。琉球大学と今帰仁村で講演

1991年(平成3年)  8月5日、ホノルルのクアキニ病院で83歳の生涯を閉じる

     9月に名桜大学(当時は大学設立準備委員会)に蔵書2万冊を寄贈


湧川清栄の功績

1.    日本の小作制度を発表

1944年(昭和19年):ハーバード大学に軍事民生官養成日本語教師兼研究員として

招聘され、「日本の小作制度」に関する論文を書く

  46年に日本の小作制度の論文がハーバード大学の日本展望に掲載される。

  マッカーサー司令部が戦後日本の農地改革に活用

  書いた動機は日本の小作農民を開放する、小作制度を改革することによって、

  日本の地方に新しい進歩的な、民主主義的な勢力を生み出し、日本の民主化

  につながると考えた。 

2.    沖縄救済更生会を結成し、戦後沖縄の復興に尽力

1947年(昭和22年) 沖縄救済更生会を結成。39歳で代表者に就任

1949年(昭和24年) 沖縄への送金開始。送金の世話を引き受ける

3.    戦後沖縄の教育の振興に貢献

1948年(昭和23年)「沖縄大学建設」の件でワシントンを訪問

  沖縄救済更生会による第1回留学生5がハワイに到着。旅費・学費・生活費・教科

 書費・小遣い全てを更生会が支給。

「食う」「着る」「住む」の三つの責任は、アメリカ軍部に責任を持たせ、人材の育成

教育の復旧を長期的に取り組むのを目的に据える。おそらくアメリカは当分沖縄を手

すまいし、あるいは半永久的に沖縄を支配するかもしれない。そうすると一番問題にな

るのは教育だ。教育の実権までアメリカに握られてしまうと沖縄人というものは永久に

植民地教育を迫られて、永久に植民地の住民としての生活しか望めない。しかし、教育

を握っておればどうにかなる、自分らの力でどうにかなるという考えから、我々は、教

育援助に全力を注ごうということになった。・・・・沖縄には大事な高等教育機関がな

い。そうすると先生を養成するにも事欠くことになるし、また将来の指導者を養成する

にも高等教育機関がなくてはできないことだ。そのままだとアメリカの植民地であるサ

モア、プエルトルコ、バージン島みたいになって、沖縄の住民はハワイの土着人みたい

な地位に陥っていく。大変な危険性を含んだことになる。だから、我々は同じ教育事業

でも小中学校の基礎教育は当然政府が責任をもってやるに違いないから、我々は高等教

育機関を自らの力で創って、それを新沖縄づくりの原動力にしようという大きな夢を描

いて全力を注いだ。実現するまでには空白の時代があるから、まず留学生をハワイへ呼

んで勉強させて技術面の指導教育を与えて沖縄へ返し、新しい沖縄づくりに参加させ指

導的役割を果たしてもらう。また、我々の究極の目的は沖縄自体に沖縄の大学を組織し

て、小・中学校の教師を養成すると同時に、いろんな部門での専門学部を設けて、将来

の沖縄に役立つような指導者、特に技術面にすぐれた技術陣をつくろうという夢を描

た。

4.    当山久三伝の執筆

1953年(昭和28年) 「時代の先駆者當山久三―――沖縄現代史の一節」を発刊

 1966年(昭和41年) 「時代の先駆者當山久三」を原作にした映画「沖縄移民の

   父・當山久三」(山城茂監督)が完成

5.    名桜大学の設立に貢献

   国立の琉球大学に対抗しうる有力な私立の大学の建設が沖縄にとって不可欠と考え、

  出身地に近い本島北部に大学をつくるため尽力。名桜大学の設立に大きく貢献した。

6.    沖縄の将来展望の提示

1989年(平成元年)琉球大学の招きで、来沖。琉球大学と今帰仁村で講演。

(今帰仁村の講演から抜粋)

(1)沖縄に新しい産業を興してほしいと、いろいろな花や木を今帰仁に送って試験し

  沖縄全土に普及させたいと思っていたら、今帰仁ではすでに取り組まれている。

(2)花卉栽培、観賞用植物栽培は、ハワイで過去20年の間取り組まれ、すごい進歩

  を遂げている。今日ハワイでできた観葉植物はアメリカ本土だけでなく、ヨーロッ

  パ、アフリカ方面まで輸出されている。20年前は小さい産業であったが、今では

  ハワイの砂糖産業、コーヒー産業に次ぐ産業になっている。沖縄は気候からしても

  農産物にしても、本土の先物を出す気候に恵まれている。野菜にしても農産物にし

  ても本土のものが出る2,3か月前に本土に出荷できる。非常に有利な地理的立場

  に置かれている。この花卉栽培、観賞用の植物栽培は有望である。村も大学の農学

  部と協調してこれらの産業を育てていってほしい。またこの産業は環境保護にも非

  常に役立つ産業である。

(3)もう一つは魚の養殖です。ハワイでは数年前から取り組み、ずいぶん失敗しまし

  たが、今日では経済として十分成り立つところまで来ています。沖縄は海に恵まれ

  ている有利な環境にある。今帰仁でも小さい魚類の養殖も含めて、率先して試験過

  程を経て一つの産業に育てていくことが非常に大事ではないかと思う。基地を撤廃

  し、基地依存の経済から脱却するには基地からの収入に匹敵するだけの収入源を考

  えなくてはいけない。面積も資源も少ない沖縄では、一つの大きな産業よりも、五

  つの小さい産業を育てる方が実現の可能性が高い。

(4)今、観光業が沖縄の新しい産業として登場してきているが、観光業は環境を愛す

  る一つの産業である。観光業は一つの地域の産業ではなく、地域以外の経済状態に

  支配される産業でもある。東京の実業家がくしゃみをして日本本土に不景気が来る

  と、沖縄の観光業は悲惨なものになる。ホテルは客も無い、雇われている人はクビ

  を切られ、環境業を目当てにしていたお土産品店も店を閉めなければならない。そ

  ういう意味で観光業は非常に経済ベースの弱いものである。自分たちの意思にかか

  わらず浮き沈みのある事業である。ですから、観光業に代わる基本的な産業をいま

  から研究し、準備しておくことが大事です。観光業を奨励すると同時に、いざとな

  った場合はそれにとって代わる産業を県や村当局も考え、観光業に関係ない産業の

  育成に努力することが大切。

湧川清栄先生の功績に思うこと

 

1.    沖縄の戦後復興と沖縄の教育振興に尽力した功績

 1947年(昭和22年)湧川清栄先生は、ハワイにおいて沖縄救済更生会を結成した。

結成当初は、沖縄への送金や物資を送る活動を精力的に取り組んでいた。しかし、施政権

をアメリカ軍部に押さえられている沖縄において、教育の実権までアメリカに握られたら

沖縄人は永久にアメリカの植民地としての生活を強いられる。自立した沖縄を作るために

は教育の実権を握り、ウチナーンチュの知恵と力で新しい沖縄を作ることが大切だと清栄

先生は考えた。そこで、沖縄救済更生会の活動を支えている多くの方々を粘り強く説得し

人材の育成と教育の復興に力を注ぐことにしたのである。小中学校の基礎教育は政府がや

るべきことだから政府に任せ、沖縄救済更生会としては高等教育機関を沖縄に作り、そこ

を拠点に新沖縄づくりを進めていく。高等教育機関が実現するまでの間は、留学生をハワ

イに呼び寄せて沖縄の復興とそれにつながる様々な知識を学ばせて沖縄に戻し、新しい沖

縄づくりのリーダーとして活躍させる。最終的には、沖縄に高等教育機関である大学を設

立し、小・中学校の教師を養成すると同時に、様々な部門の専門学部を設けて、将来の沖

縄に役立つような指導者、特に技術面にすぐれた技術陣を育てていくことを目的にしたの

である。

その手始めとして1948年(昭和23年)第1回留学生5名の旅費・学費・生活費・

教科書費・小遣い全てを更生会が賄って迎え入れた。この留学生たちが沖縄に戻り、得ら

れた知識や技術をもとに沖縄の経済界や産業界のリーダーとして活躍し、戦後沖縄の生活

再建と復興の大きな原動力として活躍したのである。また、教師や指導者を養成する高等

教育機関の設置が急務であると考え、大学の設置にも精力的に動いた。その活動は国にも

影響を与え沖縄の初めての高等教育機関として、国立の琉球大学が設立された。しかし、

清栄先生は、できれば文科省や軍の影響を受けない沖縄独自の私立大学の建設が夢だった

のである。後年、清栄先生の郷里今帰仁に近い名護市に、名桜大学が設立されたことで清

栄先生の長年の夢が実現されたのである。

私は、40年近く学校現場で教師として活動してきたが、清栄先生の思いを全く知らな

いでいた。清栄先生の思いをもっと早く知っておれば、また違った教育もできたのではな

いかと悔いが残る。私が関わった子供たちの中から一人でも多く、清栄先生が願った自立

した沖縄づくりに貢献できるウチナーンチュに成長し、平和で豊かな沖縄づくりの担い手

として頑張っていることを願うばかりである。

 

2.   沖縄の将来展望の提示

1989年(平成元年)琉球大学の招きで来沖した際に、琉球大学と今帰仁村で講演し

今帰仁村では次のようなお話をなされている。(講演から抜粋)

(1)沖縄に新しい産業を興して欲しいと、いろいろな花や木を今帰仁に送って試験し、沖

縄全土に普及させたいと思っていたら、今帰仁ではすでに取り組まれている。

(2)花卉栽培、観賞用植物栽培は、ハワイで過去20年の間取り組まれ、すごい進歩を遂

げている。今日ハワイでできた観葉植物はアメリカ本土だけでなく、ヨーロッパ、アフリ

カ方面まで輸出されている。20年前は小さい産業であったが、今ではハワイの砂糖産業

コーヒー産業に次ぐ産業になっている。沖縄は気候からしても、農産物にしても、本土の

先物を出す気候に恵まれている。野菜にしても農産物にしても本土のものが出る2,3か

月前に本土に出荷できる。非常に有利な地理的立場に置かれている。この花卉栽培、観賞

用の植物栽培は有望である。村も大学の農学部と協調してこれらの産業を育てていって欲

しい。またこの産業は環境保護にも非常に役立つ産業である。

(3)もう一つは魚の養殖である。ハワイでは数年前から取り組み、ずいぶん失敗したが、

今日では、経済として十分成り立つところまで来ている。沖縄は海に恵まれている有利な

環境にある。今帰仁でも小さい魚類の養殖も含めて、率先して試験過程を経て産業に育て

ていくことが非常に大事ではないかと思う。基地を撤廃し、基地依存の経済から脱却する

には、基地からの収入に匹敵するだけの収入源を考えなくてはいけない。面積も資源も少

ない沖縄では、一つの大きな産業よりも、五つの小さい産業を育てる方が実現の可能性が

高い。

(4)今、観光業が沖縄の新しい産業として登場してきているが、観光業は環境を愛する一

つ産業である。観光業は一つの地域の産業ではなく、地域以外の経済状態に支配される産

業でもある。東京の実業家がくしゃみをして日本本土に不景気が来ると、沖縄の観光業は

悲惨なものになる。ホテルは客も無い、雇われている人はクビを切られ、観光客を目当て

にしていたお土産品店も店を閉めなければならない。そういう意味で観光業は非常に経済

ベースの弱いものである。自分たちの意思にかかわらず浮き沈みのある事業である。だか

ら、観光業に代わる基本的な産業をいまから研究し、準備しておくことが大事である。

観光業を奨励すると同時に、いざとなった場合はそれにとって代わる産業を県や村当局も

考え、観光業に関係ない産業の育成に努力することが大切である。

  この湧川清栄先生の提言は、まさに今の沖縄の状況を予見していたかのようである。コ

ロナによって観光業界や関連産業は、清栄先生が指摘している通り悲惨な状況にある。こ

の状況を覆すには、清栄先生の提言にある小さな産業を村のリーダーシップのもとしっか

り育成し、産業の振興に力を合わせて行くべき時だと考える。今帰仁村ではすでに野菜や

花卉の栽培、スイカやマンゴのブランド化、ウニの養殖など力強く取り組まれている。こ

れらは、清栄先生のご指摘を受けて取り組まれるようになったのか私には知る由もないが

今帰仁村内のこれらの産業をネットワーク化し、本土より早く出荷できる地理的条件を生

かすための流通経路を確立し、力を合わせて取り組んでいけば今帰仁村の活性化、経済の

振興が図れるのではないかと私も思う。

令和4年10月10日


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