今帰仁の自然と暮らし

今帰仁の自然と暮らし

 1980年代初めに、日教組の教育研究全国集会北海道大会に参加する機会を得ました。そこで、北海道教職員組合の北檜山町教育研究サークル協議会が、北檜山町教育委員会の協力を得て発行した「北檜山ーわたしたちの自然」という副読本をいただきました。
 その冊子を見ながら、いつか自分も今帰仁村の自然を子供たちに教える副読本を作れたらという夢を持つようになりました。しかし、日常の教育活動の忙しさを口実に後回ししているうちに、定年を迎えてしまいました。
 定年を機に一念発起し、現役時代に果たせなかった夢を実現しようと様々な資料や文献をあさったり、紹介したい今帰仁の自然の撮影に出かけたりと時間をかけてゆっくりまとめていきました。私一人の力でまとめた内容には限りがあります。不十分な点も多々あると思いますが、私たちの住む今帰仁の台地がどのように形成され、そこにどのような自然が形成されてきたかを知る手掛かりにはなると思います。
 令和3年にホームページ「ひやみかち今帰仁」を開設することができました。これを機にこれまで調べてきた事柄を掲載したいと思います。なお、この冊子を作成するにあたって参考にした文献や資料は、下記のとおりです。

≪参考文献≫

今帰仁村の自然 教育委員会社会教育課文化財係編 今帰仁村教育委員会発行

地層と化石が語る琉球列島三億年史  神谷厚昭 著  ボーダーインク発行

琉球列島ものがたり         神谷厚昭 著  ボーダーインク発行

石ころと化石  沖縄県高等学校地学教育研究会編     東洋企画 発行

本部半島の石灰岩とカルスト        琉球列島ジオサイト研究会発行

          今帰仁グスクが語る地球のドラマと人々の歴史       〃

    古宇利島が語る地球の営み                〃

名護・やんばるの地質  遅沢壮一・渡邊康志 共著    名護博物館発行

琉球弧の地質誌        木崎甲子郎 著    沖縄タイムス社発行

原人発見の夢膨らむ/今帰仁村呉我山  琉球新報2000年9月18日記事

琉球大学学術リポジトリ       林大五郎         琉球大学

    その他ネット検索資料多数

第1章 今帰仁村の台地の成り立ち

  1 今帰仁村の位置と地理的特徴

1 今帰仁村の位置と地理的特徴

 今帰仁村は、沖縄本島北部、本部半島の北東部(北緯26度40分43秒、東経127度58分29秒)に位置し、那覇市から北へ85kmあり、東から東南部にかけては名護市南西部から西は本部町、北は東シナ海に面し、北東約1.5kmには古宇利島がある。

  村の南側には、乙羽岳(標高約275m)を中心に、山並みがほぼ東西に延びている。その山麓から北及び東に向かって緩い傾斜地となり、さらに平坦地が広がり、耕作地は集落を中心に広がっている。

  村内の河川は、村の中央部を呉我山から仲宗根を通り東シナ海へと注ぐ大井川(二級河川)と今帰仁城跡の東側を流れる志慶真川(普通河川)がある。そのほかに4本の普通河川があり、いずれも南から北方向へと流れ東シナ海へと注いでいる。

私たちの住む沖縄県は、周囲を海に囲まれ「亜熱帯海洋性気候」と呼ばれる気候のもと、世界でも稀な湿潤亜熱帯と言われる独特な自然を形成している。

今帰仁村の気候も、気温の年較差や日格差が小さく、年平均気温は約23度、寒い月で17度前後、暑い月は29度前後でる。年間の降水量は2000~2400mmと多く、5月の梅雨時期と夏から秋の台風時に雨が多い。夏は穏やかな南風が、冬は風速10m/秒前後の強い北東風が吹き、春と秋の交代期の天気は不安定で、台風の襲来も多い地域である。季節は本土のように四季の変化は明確ではなく、次のように大別される。

 春:2月下旬~5月上旬  梅雨:5月中旬~6月下旬

 夏:6月下旬~10月上旬  秋:10月上旬~11月

 冬:12月~2月下旬

  年間を通して温暖・多湿な気候は、1年を通して植物を盛んに成長させる。植物の種類も多様で、昆虫などの小動物も多く、年間を通して活動している。今帰仁村は、緑豊かで自然に恵まれた地域である。

2.今帰仁村の台地の成り立ち

上図は、今帰仁村の地質図である。これによると今帰仁村は、中生代に堆積した今帰仁層、与那嶺層(本部層を含)、湧川層など地名のつく地層に、新生代第四紀に堆積した琉球層群(下部層)、琉球層群(上部層)、礫層、沖積層などが混在して形成されている。

この今帰仁村の大地はどのように形成されていったのか、時代を追って見て行こう。その際、参考になるのが次ページの「沖縄の地質層序表」である。いつの時代にできたのか気になるときは、常にこの表に立ち返って確認して欲しい。

今帰仁村を含む琉球列島の骨格をなす島々は、古生代後半(2億数千年前)や中生代(7千万年~2億年前)と言われる時代に海の底で堆積した地層が多い。海洋プレートの上部にあったこれらの堆積物や海山が、プレートの移動で次第に大陸プレートに近づき、左図のように海溝付近で沈み込んでいった。その時、強い圧力で陸側に押し付けられたため、海洋プレートの上の堆積物や海山は、はぎ取られていった。その際、大陸側から運ばれてきた砂岩や泥岩(現地性の堆積物)と海洋プレートが運んできたチャートや玄武岩質溶岩(異地性の堆積物)などが複雑に混じった地層(メランジェまたはオリストストローム)になりながら次々に大陸に付加していった。今帰仁村を作る地層は、中生代白亜紀後期(約7千万年前頃から)に大陸プレートへ今帰仁層や本部層を含む与那嶺層、湧川層などが次々に付加してできたものである。付加した当時これらの地層は水深数千mと云う深海にあった。しかし、新生代第三紀漸新世(3千万年前頃)から中新世(2千万年前頃)にかけて琉球列島全域が隆起し、大陸と陸続きになったため、今帰仁村の大地が始めて陸地として姿を現したのである。

新生代第三紀鮮新世後期(200~300万年前頃)になると琉球列島の西側に沖縄トラフと呼ばれる深海盆が拡大・陥没し、島尻海と呼ばれる海が広がっていった。今帰仁村の低地にも海が広がり、礫層や琉球層群の下層部を作る地層が堆積していった。

新生代第四紀更新世前期(150万年前頃)の初めごろになると、島尻海も次第に陸化していった。今帰仁村の礫層や琉球層群の下層部も隆起し、乙羽岳の北側に広がる平地を形成していった。

更新世中期から後期(50~100万年前頃)になると琉球列島を作る多くの島々が沈降し、琉球サンゴ海が広がっていった。しかし、今帰仁村や山原の森は、琉球サンゴ海に点在する島々として浮かんでいた。この琉球サンゴ海に堆積していった地層が、琉球層群上層部(琉球石灰岩)である。琉球石灰岩が分布する地域にある琉球層群下部層は、この当時沈降して海になっていたと考えられる。その後、更新世末期(40万年~1万年前)の氷期(氷河時代)に伴う海水面の低下により、琉球石灰岩に覆われた地層も大地として姿を現した。

約2万年前の最終氷期になると海面が最も低下し、河川の浸食によって山は削られ谷が形成された。その後、約6000年前の海面上昇により、谷は堆積物で埋められていった。これが沖積層である。その後の海面低下で沖積層が姿を現し、現在の今帰仁の姿が出来上がった。

 最終氷期(約2万年前)が終わり、完新世(1万年~現在)になると海水面が次第に上昇し、陸域は狭くなった。約9500年前から現在のサンゴ礁が形成され始めた。海水面の変化に伴ってノッチやビーチロックが形成され、現在の様な琉球列島の島々の姿なった。

3.今帰仁を作る地層の特

 次に、今帰仁の大地を作る地層の特徴を見てみよう。
 先ず、中生代白亜紀に付加したと考えられる今帰仁層は、志慶真川と本部町渡久地を結ぶ線より西側に広く分 布している。層理の発達した石灰岩、シルト岩、緑色岩などからできている。          
 石灰岩やシルト岩には、アンモナイトやハロビアという二枚貝の化石が含まれている。アンモナイトは中生代を示す示準化石で、その種類は日本に産する種類は少なく、遠くヒマラヤやアルプスを作る地層に含まれるアンモナイトと共通性が多い。                      
 また、ハロビアも日本より東南アジアからアルプスにかけて広がる種類だと言われている。中生代三畳紀後期の沖縄や今帰仁村は、日本とは違った自然環境で、ヒマラヤ・アルプスにつながる海であったことがわかる。
 同じ中生代白亜紀、今帰仁層に続
いて付加したと考えられる与那嶺層は、今帰仁層の東側に広く分布している。石灰岩、チャート、緑色岩(玄武岩)などの岩塊を、泥岩、砂岩、礫岩、凝灰岩などいろいろな種類の岩石が埋めるような形で入り混じってできている。
与那嶺層に含まれる本部石灰岩には、古生代ペルム紀のフズリナが、チャートからは中生代三畳紀のコノドントが発見されている。また、これらの岩塊を埋める地層からは中生代白亜紀前期の放散虫が見つかっている。これらの事から今帰仁村の中心部を占める与那嶺層は、いろいろな時代の岩石が入り混じった地層であることがわかる。湧川層は、湧川南部から嵐山地域にかけて分布する地層で今帰仁層や与那嶺層と違って石灰岩はなく、砂岩、黒色千枚岩の多い地層で他に緑色岩や頁岩も含まれている。   

        赤木又(呉我山)の地層

今泊、兼次、勢理客、懇謝堂、赤木又に分布する礫層の中で、特に赤木又は地質学や古生物学の専門家から「原人発見の夢膨らむ地層」として注目を浴びている。赤木又は、150万年前の地層で中国・揚子江下流域で採取されたものと歯の形や体系が非常によく似たネズミやシカの化石が多数発掘されている。大陸と陸続きだったこの時代、シカなどの大型の動物を追いかけて原人がやってくることは十分考えられる。沖縄での原人発見も夢ではないと専門家は語っている。

 琉球層群(琉球石灰岩)からなる古宇利島北東側の海岸にポットポールと呼ばれる不思議な穴がある。その成因について、ヤシの林幹の跡だと考える「ヤシ林化石説」と、流水の働きで礫が岩を削ってできた丸い穴(ポットポール)であるという「ポットポール説」との間で議論が巻き起こり、注目を浴びた。今では「ポットポール説」が
有力になっているが、結論は出ていない。    

また、崎山や天底、渡喜仁の琉球石灰岩が風化した赤土(島尻マージ)の中から数mmから1.2cmの「ヒージャーヌクス」と呼ばれる丸くて黒い塊が出てくる。マンガンノジュールと呼ばれ、石灰岩が風化される際に、土壌中に含まれていたマンガン、鉄、銅、ニッケルなどが雨水に溶けて濃集し、これが核となって固まってできたものである。過酸化水素水に二酸化マンガンを入れて酸素を発生させる実験で、二酸化マンガンの代わりにマンガンノジュールを使ってみるのも面白い。

 玉城のパーマから大井川を少し上流に行くとヤナガー(柳川)という場所がある。そこは、大正時代にトラバーチンを切り出した所であり、トラバーチンの岩塊が転がっている。トラバ
ーチンとは、琉球石灰岩の中で特に石材として品質の良いものをいう。大正9年
から建設の始まった国会議事堂に「琉球石」の名で呼ばれて使用され、中央広場の壁や傍聴人階段の壁に使用されている。国会議事堂以外に皇居にも使われているとの事である。トラバーチンは、今帰仁村以外に本部町の瀬底島、勝連町平敷屋、それに宮古島からも切り出され、東京に送り出された。トラバーチンの多くは那覇石灰岩タイプのものである。

4.今帰仁村の特徴的な地形

今帰仁層の石灰岩は、層理が発達しているため板状に割ることができる。今帰仁城跡の石垣は、この石灰岩の特徴を生かして石垣を築いて いったのである。今帰仁層の石灰岩が近くになければ、今帰仁城は作れなかったかもしれない。

 また、今帰仁層に含まれる石灰岩や与那嶺層に含まれる本部石灰岩は、浸食を受けてできるカルスト地形を作る。沖縄のように亜熱帯に属し、高温で雨の多い地域では浸食が速く,熱帯特有の円錐カルストができる。今帰仁層の石灰岩のある山里から今帰仁城跡にかけての地形や本部石灰岩からできている嘉津宇岳や八重岳なども円錐カルストの地形になっている。この雨水に溶けやすい石灰岩は地下にしみ込んでいく。今帰仁村には、川が少ない上、大井川や志慶真も晴天が続くとすぐに干上がった川になるのはこのためである。一方で「湧く井戸」(方言でカーとかガーという)が多いのは、雨水などが地下水となって地下を流れているからである。

 また、今帰仁の夏は、青空の広がる晴天の日でも、午後になると突然通り雨が降ることがある。これは、名護湾で温められた海水が蒸発しカーチーベー(南風)に吹かれて本部半島の山々をかけのぼり、今帰仁の上空で積乱雲となって通り雨を降らせる。日照りの続く季節や年でも、今帰仁には、石灰岩台地の作る豊富な地下水や通り雨などで水が豊富なため農作物がよく育つ。今帰仁城を産み出した豊かな大地は、石灰岩が織りなす地形の恵みだと言える。
 今帰仁村の地形を形作る上で、大きな影響を与えているのが断層である。
運天のクンジャー一帯には仲尾次砂層(又は知念砂層)がある。これは琉球層群下部層に当たる地層で、約10万年前~150万年前に堆積した地層である。石灰質シルト層から砂岩層になる堆積層である。カキ、イタヤガイを主に巻貝やウニ、腕足類、有孔虫などの化石を含んでいる。同じような地層が屋我地島や古宇利島にも見られる。

また、古宇利大橋の工事に伴うボーリング調査から海底下30mのところからも同じ地層が発見された。これは、断層面に沿って隆起した所が島や崖の上の大地になり、運天と古宇利島の間や屋我地島の間にある海(ワルミ海峡)は落ち込んで出来たものである。隆起して崖を創る台地は、運天から崎山にかけても見られる。   

今帰仁の唯一の離島、古宇利島に見られる地形は、典型的な海岸段丘である。海岸段丘は、陸地が波などの影響で海岸線

が削られ海食崖ができた後、隆起したときなどにできる地形である。古宇利島は何度か隆起を繰り返してできた島と言える。また、海岸段丘は海面が低下した時にもできる。
隆起したのか、海面が低下したのかは、段丘が水平であるかどうかを見ればある程度見当がつけられる。
 海岸線を歩くと波打ち際に、ビーチロックを見かけることがある。ビーチロックは、気温が高い日中の低潮時に、海水が蒸発し、海水中にあった炭酸カルシウムが結晶となってまわりにある砂礫を固めたものだと考えられている。ビーチロックは縄文時代から現在にかけて潮間帯にできる特殊な岩石で、過去数千年間の海岸線の変遷を知るのに役立つ。ビーチロックは「渚の化石」として、昔の海岸線の位置を語る渚の証言者である。

 海岸線を歩くと、琉球石灰岩がへこんだ部分や、キノコのような形をした岩がみられる。このように岩に凹みを創る理由として、一つ目に波による浸食作用、二つ目に海水による溶食作用、三つ目にカサガイやヒザラガイなどの潮間帯生物による岩の削り取り作用などが考えられる。この岩のへこみをノッチと呼び、ノッチの最もへこんだ部分を「ノッチの後退点」という。ノッチの後退点は、ノッチが形成される時の満潮位と干潮位の平均海面である。従って、ノッチの後退点が現在の海水準と合わない場合は、何らかの変動があったと考えられる。ノッチもまた、渚の証言者と言える。

 今帰仁村の北海岸には、白い砂浜が広がっている。この砂を手に取ってみると、サンゴや貝、ウニ、カニなどのかけらや原生動物の有孔虫の殻など海の生物の遺骸がほとんどである。それらの多くが白い色をしているので、白い砂浜になるのである。沖縄や今帰仁村の砂浜は、サンゴ礁が生んだと言える。       

【編集後記】
 様々な資料や文献を活用し、私の住む今帰仁村の台地の成り立ちをまとめてみた。調べて分かったことは、今帰仁層、与那嶺層、湧川層、本部層、琉球石灰岩など、成立過程や性質の違う様々な地層が混在していることである。土台の性質が違えば、そこに生えてくる植物やそれを餌にする動物も多様になる。今帰仁村は、沖縄の中でも豊かな自然に恵まれた村と言える。私たち今帰仁人(ナチジンチュ)の祖先は、この豊かな大地に生活の場を求めてやってきたと考えられる。次は、このナチジンチュが今帰仁の台地に、どのように根を下ろしてきたのか、その歴史について調べてみたい。
 このレポートをまとめるにあたっては、自分で作成したり撮影できない画像は、他の資料や文献から引用した。
 今帰仁村教育委員会は平成14年に「今帰仁城跡」、平成22年に「今帰仁村の文化財」、平成24年に「今帰仁村の自然」のガイドブックを発行している。私が、この「今帰仁村の自然と暮らし」について書くにあたってこの3冊のガイドブックは、多くの資料を提供してくれる貴重な本である。
今帰仁の台地の成り立ちの後、今帰仁の豊かな大地に住み着いたナチジンチュの歴史を調べようと「今帰仁城跡」のガイドブックを開いたところ、私の言いたいこと、書きたいことをまとめ上げたような文章が目に飛び込んできた。それをこのホームページを閲覧している皆さんに見てもらおうと、そっくりそのまま転写したものを紹介する。

自然の豊かな今帰仁グスク

~多様で複雑な地形~

 今帰仁村を含む本部半島の地質は、古生代末から中生代にかけて形成された沖縄ではもっとも時代の古い地層群とされています。中でも山里に形成されるカルスト地形は今帰仁城跡からも近く、円錐状の山系がひろがります。今帰仁の山間部は、本部層といわれる結晶質石灰岩や緑色岩、チャート。泥岩、砂岩などの様々な岩石が狭い範囲内に分布します。こうした山間部の古い地層の周囲に、新しい時代にできた石灰岩(琉球石灰岩)や段丘堆積物、そして沖積地に運ばれた土砂や岩石(礫層)が低層部に広がるなど多様な地質を示しています。また、その多様な地質を反映し、多様な土壌が見られ、農業や自然植生にも大きな影響を与えています。

~湧き水・そして通り雨~

 本部半島には河川が少なく、今帰仁の川といえば大井川と志慶真川ぐらいです。これらの河川では雨の少ない時期には流れの途中から水が消え、地下の伏流水となってしまいます。しかし、低地部の集落周辺には湧き水が多く、水資源は豊かです。また、夏場の降雨の少ない時期でも今帰仁には通り雨が煩雑にみられます。これは、名護湾で蒸発した大気が、南風に吹かれ嘉津宇岳や八重岳を越えるときに冷却され発達した積乱雲になり、大量の水分を雨粒として運び、ちょうどな今帰仁上空を通過する際に「通り雨」となって恵みの雨をもたらしてくれるからです。

~緑したたる豊かな森~

 多用な地質と土壌、そして水に恵まれた今帰仁では、今帰仁城跡周辺から東の乙羽岳にいたる山間部にまとまった面積の森林がみられます。本部半島を含め。沖縄島の自然植生としての森林は地質・土壌を反映し主に、ヤブニッケイやクスノハカエデ、イヌビワの仲間、ソテツなどが優占する石灰岩起源の植生と、スダジイが優占し、マテバシイ、オキナワウラジロガシなどのブナ科樹木や、ヒカゲヘゴ、コシダ(ワラビ)などのシダ類が特徴的な森林の2種に大別できます。前者は今帰仁城跡周辺の森林で、後者はノグチゲラやナンバルクイナなどの生息する「やんばる(国頭三村)」の山地部によくみられます。今帰仁の山間部では地質が複雑に分布することもあり、この2つのタイプの森がまとまった面積でモザイク状に散在しています。やんばると中南部のそれぞれの代表的な森が、狭い地域に混在してみられるのも今帰仁の自然の特徴のひとつとなっています。

~豊かな森の生物たち~

昆虫類:蝶類はこれまでに沖縄島で報告されている8科69種の蝶類の約85%にあたる約60種が確認されています。特に沖縄島を北限とする県指定天然記念物のフタオチョウやコノハチョウ、琉球列島の固有種でもあるリュウキュウウラナミジャノメ、また海岸林に特有な種なども多数確認されています。そのほかの昆虫でもオキナワカブトムシやマルバネタテジ、クワガタなどの甲虫類、カラスヤンマ、オキナワオジロサナエなどの渓流性トンボ類など自然豊かな地域にしか見ることのできない種が確認されていますが、生息域は極めて限定されています。

両生類:沖縄島の在来種(12種)のうち、ナミエガエル、イシカワガエル、ハナサキガエルの渓流棲3種以外はすべて確認されています。ナミエガエルについては志慶真川源流付近での目撃情報はありますが未確認で、前3種にホルストガエルを加えたこれらの琉球列島の固有種は、主にシイ林内の水量豊富な源流域が棲息環境であるのですが、今帰仁での棲息状況は極めて厳しい状況にあると考えられます。

爬虫類:在来種(15種)と移入種(7種)も含め、沖縄島で記録のあるほとんどの種が確認されています。

鳥 類:14目30科73種が確認されていますがノグチゲラ、ヤンバルクイナ、ホントウアカヒゲ、アマミヤマシギなどの沖縄島あるいは琉球列島の固有種はみられません。沖縄島での野鳥の記録の上で約9割を占める「渡り鳥」の中でも、シギ・チドリ類やガン・カモ類などの水辺鳥の記録が少ないのも特徴的です。

哺乳類:詳細は不明ですが、これまでオキナワトゲネズミ、ケナガネズミなどのスダジイ自然林に棲息する琉球列島の固有種や、リュウキュウイノシシなどの確認報告はありません。

  以上が「今帰仁城跡」の28頁にコラムとして書かれていました。これらを参考にしながら「ナキジンチュの歴史」を紐解いていきたいと思います。


今帰仁村の台地の成り立ちと時代区分

 今帰仁村を含む本部半島は、約2000万年前に隆起し大陸と陸続きになっいた。その後500万年前に本部半島の西側が陥没して島尻海ができ、大陸と切り離された。その後、200万年頃になると島尻変動で再度隆起し、大陸と陸続きになった。その当時の気候は現在よりも気温が高く、今帰仁あたりには杉林が繁る標高2000m以上の高い山があったと言われている。また、赤木で発見された鹿やネズミなどが大陸から渡ってきたのもこの時代である。100万年前になると再び沈降し、琉球サンゴ海ができ、琉球石灰岩が堆積ていった。その後隆起した後、3度にわたる氷期により海面低下し、1万年から7万年前の最終氷期に、大陸と陸橋でつながっていた時代に港川人が歩いて渡ってきたと考えられる。このような様々な大地の変動を受けながら今帰仁村の台地は形成されていったのであるが標高100m以上の台地琉球石灰岩地帯が見当たらないのは、2000万年前から現在までずっと陸地であり続けていたことを示している。また、そこに前期遺跡がほとんどみあたらないのは港川人が沖縄に渡ってくるまで、人類は住んでいなかったからだと考えられる。

今帰仁村の先史時代

  次に、今帰仁村で発掘された遺跡から、今帰仁村に住み着いてきたナチジン

 チュの足跡を見てみたい。今から1万年から7万年前の最終氷期は、世界史でも

 打製石器を使っていた旧石器時代と言われている。その当時、大陸と陸橋でつ

 ながっていた琉球列島に港川人に代表される人々が渡ってきた。しかし、今帰仁

 ではその当時の化石人骨や遺跡は発見されていない。

1, 今帰仁の貝塚時代

土器を使い、石器などを道具として使っていた貝塚時代(約7000年前~1000年前ごろ)のおよそ4000年前ごろから今帰仁に人が住むようになった。その当時のナチジンチュは、山でドングリを拾ったりイノシシ猟を行い、海では魚を捕ったり、貝を拾い食料にして生活していた。与那嶺で発掘された西長浜原遺跡は、貝塚時代前期~中期(3500~2500年前)の今帰仁で最も古い遺跡の一つである。広い範囲で集落を形成し、50以上の竪穴住居跡や、食料などを保存する貯蔵穴がある。

 古宇利の古宇利原A遺跡も貝塚時代前期~中期の遺跡である。土器や石器をじめ、加工された貝珠が発見され、装飾品として使用されたとされるジュゴンの骨製品が出土している。

渡喜仁の渡喜仁浜原貝塚は、崖下に作られた貝塚で、北風を避けながら豊富な魚貝類を食料としていた集団が生活していたと考えられる。今帰仁村内で初めて本格的な発掘が行われた遺跡。遺跡の目印になるのはクロイシと呼ばれ海岸にある岩で、その崖側に貝塚がある。現在でも遺物を拾うことができる。

 運天の運天貝塚は、クンジャーの標高約5メートルのところに形成された遺跡である。この貝塚では、今帰仁村内で発見された遺跡の中でも一番古い土器が見つかっていて、縄文時代中期(4000年前頃)にさかのぼる遺跡と考えられる。崖下には貝塚時代後期(1000~2000年前)の貝塚もある。昔から住みやすい所だった。

 古宇利原B遺跡は、縄文時代後期から晩期にかけての集落跡である。柱穴や炉跡と思われる遺構が確認され6基の竪穴住居跡が発見された。土器や石器、マガキガイで作ったビーズが出土している。現在は道路や畑になっている。

 謝名にある謝名大島原遺跡は、謝名集落の拝所となっている大島原の丘陵の地下には、グスク時代の集落遺跡と、貝塚時代中期ごろの二つの遺跡が埋まっている。畑などでは土器や石器を拾うことができる。謝名にはシカーやメーヌカーなどの湧水地があり水が豊富なのでこのような水場を利用したと考えられる。他にも診療所の近くに謝名遺跡などがあって、このあたりの台地では今か2~3000年前にはとても住みよい場所だったと考えられる。 

2. 今帰仁のグスク時代

 狩猟採集中心生活の貝塚時代から、稲作・畑作の農耕社会へと移行し人口が増えると、新たな土地の確保をめぐって争いが起こり、按司と呼ばれる支配者領主が現れ、グスクという城が各地に作られた。この時代をグスク時代という。14世紀になると、沖縄本島では山北(北山)、中山・南山という勢力がそれぞれ富を築きながら争っていた(三山鼎立時代)。山原では、13世紀頃から1200年前ごろまで、各地で有力者の勢力争いが行われ、その山原地方の勢力が、次第に北山に集約されていく。 

山北(北山)王時代(13世紀末~1421年)

 今帰仁城を拠点に、山北王が山原全域を支配した時代。中国の歴史書『明実録』に山北王「怕尼芝・眠・攀安知」の三王の名前が登場する。

  1監守時代(1422年~1469年)

   中山によって北山が滅ぼされ、首里から「北山監守」が派遣される。今帰仁が中山の支配下へと次第に組み込まれていく時代。

 ②  第2監守時代前期(1422~1469年)

第2尚氏系統の監守時代。祭祀を中心とした統治システムが次第に形成されていく時代。

 ③  第2監守時代後期(1610~1665年)

1609年の薩摩軍による琉球侵攻の後、看守が首里に引き揚げるまでの56年間、今帰仁城付近にあった今帰仁村と志慶真村が移動する。

 ④  間切時代前期(1666~1879年)

今帰仁間切から伊野波(本部)が分割し、今帰仁間切がほぼ現在の面積になった。今帰仁がひとつの間切として扱われるようになった時代。監守制度は廃止されるが、祭祀はまだ色濃く残っていた。

 ⑤  間切時代後期(1880~1908年)

廃藩置県後、今帰仁間切が沖縄県政下に組み込まれる時代。「沖縄土地整理法」による土地制度の改革により、社会の仕組みが大きく変化。

 ⑥  村政時代戦前(1908~1944年)

間切が村となり、村(ソン)が字(アザ)と改められる。役場が1916年(大正5年)に移動し、今帰仁の行政の中心が運天から中宗根に移る。

 ⑦  村政時代戦後(1945年~  )

敗戦を迎えアメリカ軍統治、琉球政府時代を経て、日本本土復帰。今帰仁城跡が国の史跡として指定(1972年)され、世界遺産登録(2000年)後現在に至る。

  




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