紙芝居
平良新助の人となりを多くの方々に知っていただくため、大里康永著「平良新助伝」をもとに紙芝居の脚本を私が書きました。絵は平成26年当時、今帰仁中学校に在籍していた美術部の皆さんが担当してくれました。紙芝居の朗読は、私が担当し、日ごろ私が使っている仲宗根言葉(フンジャークトゥバ)を使って読み上げます。
今から 百四十年前 今帰仁ぬ 謝名んてぃ
ちぇー元気な 男子が 生りたん沖縄の人ぬ 海外移民ぬ 基礎 作った
平良新助 うぬ人やさ
体や 小さいせーしが 頭や 良くて
負けるしや ぬーよーかん 嫌う 新助や 謝名
一番ぬ ガキ大将に なっとぅいたん
ちゃっさんぬ 仲間 連れて 野原や 海
駆け回って 居た
また 童ぬ 頃から 曲がったことが
全く嫌い 弱いもの いじめる
人がうりば 誰でも立ち向かって
行く 肝心ぬ 真っ直ぐな
良い子えったん
👋
第2図 柱時計の分解
明治20年 (1887年)小学生のころ
新助が 天底尋常小学校 四年生に なったん あぬ日ぬ事
校長先生から 友達三人とぅ 一緒に
宿直室ぬ 留守番 頼まれた
宿直室にや 学校んてぃ ただ一ぬ 柱時計が
掛かっていた
カチカチ 動く 時計見ているうち
ちゃんなー仕組ち 動くのか 知りたくなってぃ
うぬ時計 あきてぃ バラチみっちゃん
組み立てる 時に 困らない様に
部品かてぃ 番号打ちがちなー バラチいじゃしが いぇーちゅる
仕組や 分からん ままやたん
バラちゃる 順番に 組み立てて 姿 形や
元に 戻ったが 動かない時計に
なっとぅいたん
翌日 学校や 時計が 動かないため 授業ぬ
始まりとぅ 終わりぬ 合図ならぬ
大騒動に なったん
時計 壊した シンカや すぐ 見つけ らったん
ガキ大将ぬ 新助や 一週間 他の 三人や
三日間 学校かい すーし 停止された
👃
第3図 食料を担いで山道を通う
明治24年 1891年国頭高等小学校入学
天底尋常小学校 卒業しちゃん 新助や 名護に あいぬ 国頭
高等小学校かてぃ 入った
車ん 無い 時代えってーとぅ 名護に 下宿
すーぬ くとうに しちゃん
休みなりば 三里あいぬ うすまさぬ 山道 歩いて
帰った
あっくぬ うっさーちん うとぅるせん 山道えったしが 新助や 家と
学校ぬ 行き帰りに 芋や 米 味噌んでー
重い 食べ物 かたみてぃ 名護に 戻り
周囲 驚かせて ういたん
卒業すんまでぃぬ 三年間 うぬ うすません 山道
行き帰り しちゃる くとぅち 足腰
強くなって ちゃんなぬ 苦しい くとぅ
あってぃん 負けない 強い 心とぅ 体
身に 付けて いじゃん
👀
図4 ストライキ
明治27年 1894年沖縄尋常中学校入学
英語ぬ 授業 無くする でぃぬ 校長ぬ 考え
出された
英語や 中学校から 上の学校に 進むたみにや
必ず 学んで うらんねーならん 大切な
学問えったん
上の 学校かてぃ 進む道
無くする と言う 考えや
生徒達に とぅってぃ ちゃんちしちん 認めららん
事えったん
新助 初め 生徒 全員が
立ち上がり 英語ぬ 勉強 続けさせる たみぬ
ストライキ 始めた ストライキや 半年ぬん
続く 激しい 戦い えったしが 生徒ぬ
強い 思い 学校んかてぃ 伝わって
英語ぬ授業 続けて 行く くとぅが 決まった
✋
図五 当山久三や杣山開墾反対運動との出会い
明治29年 1896年
👻
図6 今帰仁での戦い
明治30年 1897年
中学校 やみてぃ 今帰仁かてぃ 戻ってちゃーぬ 新助や 間切
総代かてぃ なったん
今帰仁うてぃん 村内ぬ 杣山が 開墾 さーりんでぃぬ 話
持ち上がった
ただーちん 少ない地畑 うりよーか 多く
奪われたら 生きては いからんでぃち 今帰仁ぬ
村人や 立ち上がって 反対すんたみぬ
集会開いた
新助や 早速 村々ぬ 総代二十七名とぅ 一緒に
開墾反対運動ぬ 先頭に 立ちゃん
当山とぅ まんな あまふまうてぃ 反対運動取り組んできた
新助ぬ 経験が うまうてぃ 生きた
新助ぬ 働きは 素晴らしく 村人ぬ
期待 体 全部に 集めて
戦った
長く 激しい 戦いも 最後は
裁判に 持ち込み 見事に 勝利させた
新助達は 杣山 今帰仁ぬ 村人ぬ むんとぅしち
守り抜いた
👳
図7 開墾反対運動から海外雄飛へ
明治33年 1900年
当山久三や 開墾反対運動かい 取り組みがちなー ウチナンチュが
多く ないしとぅ 食べ物が 不足すーぬ
くぅとぅんかい 強い 想い むっちゅいたん
うりや 琉球王国 時代ぬ 有名な
三士官 蔡温が 狭い 沖縄うてぃ 食べ物賄い
しーゆーしや 三十万人分 しかねんでぃち ウチナンチュが 多く
ないしとぅ 食べ物が 不足 すーぬ事に 昔から
警告 ういたんくとぅ 分かとぅいたん
明治ぬ 半ば ウチナンチュぬ 数や 四十万人 あまてぃ
食べ物不足や 大事な 問答かてぃ
なっとぅいたん
当山や うぬ問答 片づけるたみにや ウチナンチュ 海外に
出して いかんねー ならんでぃ 考えて
海外移民ぬ 取り組み 本気で 始めた
いちかや 自分も 海外に出て 頑張って
みーぶせん でぃぬ 夢 持って居た 新助や
次第に 海外移民ぬ 想い 強くなってぃ いじゃん
移民ぬ 準備 すんたみにや 英語ぬ 力 身に
付けないと ならんでぃ 考えたん 新助や
一人で東京に 行 英語学校うてぃ 学ぶなれん事に しちゃん
👬
図8 ハワイ移民団の実情調査でハワイに渡る 明治34年 1901年
新助が 英語ぬ 勉強に 励んで うぃたん 頃
当山や 第1回 移民団名
ハワイかてぃ送り出して うぃたん
えっしが ハワイかい 到着後ぬ 移民シンカぬ 様子
全く 伝わって ふらんたん
うりや 移民シンカぬ 多くが 学校 あっちゅらんてーとぅ 手紙
書けなかった 為である
郷里んてぃや 大騒ぎ になってぃ いるんな 噂が
流れた
移民ぬ 人達や ハワイうてぃ ひどくいじめられる
さってぃ 大変な 苦労しみらってぃ なー 生きては
居ないぱじー でぃぬ 話が 流れた
うぬよーな 状況えってーとぅ 第2回移民シンカ
集めようとしても 希望ん 人や
誰もうらん 移民送り出す仕事や
早々と 行き詰まった
困り果てた 当山から 東京に 居た 新助に
手紙が 届いた
ハワイに 渡って 移民シンカとぅか ハワイぬ 様子
調べて とぅらさんがやー でぃぬ くとぅ えったん
海外に 出ていく たみぬ 準備
進めていた新助や 当山ぬ 頼み 喜んで
引き受けて 明治34年 ハワイかてぃ 旅立って いじゃん
👼
図9 ハワイ移民の実態
ハワイに 着いた 新助や 第1回移民シンカぬ 団長
うりにゆれー 契約移民とぅしちー 働き 始めた
初めの 頃や 自由ぬんねーん あばいちりるぬ
生活 えったんとぅか 休みん ねーぬ 長い時間
牛馬ぬ ぐとぅ 働かされ
続けさせられた でぃぬ くぅとぅ えったん
あんしが ハワイに 着いた 三か月後に
移民シンカに とぅってぃ 大きな 世がわりが
起きた
1900年 ハワイが アメリカとぅ 一つに なったんたみに
ハワイ政府とぅ 交わされていた 契約移民制度でぃ
いぅーしや 無くなった
牛馬ぬ 様に ひどく扱われてた
契約移民から だーまでぃん 自由に 出かけ
働く くぅとぅ ないぬ 自由移民かい 変わった
新助が ハワイに 渡った 頃は 第一回移民シンカ26名や
自由ぬ 身なってぃ ハワイぬ あまふまーとぅか アメリカ本国までぃん
広がって 行った 後えったん
新助や 移民シンカぬ 様子 ウチナーに 居る 当山に
知らせた
💫
図10 第2回移民団の出発
明治36年1903年
第1回移民 シンカとぅ ハワイぬ 様子 新助から 続けて
伝わって ちゃーぬくとぅち 移民かてぃぬ ウチナンチュぬ
考えが 大きく 変わっていじゃん
移民しーねー 豊かに 暮らすくとぅ ないがすーら
分からんでぃ 思った ウチナンチュや 当山久三 信じる
ぐとぅー なってぃ 海外移民 希望すん 人が 増えて
集まってちゃん
うんな中 新助や「移民 進める 貴方が ハワイぬ
くとぅ 分からんでぃ いうしや ちゃーすが 是非 ハワイ みーが
ちーとぅらせー」でぃち ハワイに 来るぐとぅ 頼んだ
頼み 受け止めた 当山や 旅立ちぬ前に
「いざ行かん われらの家は 五大洲 誠一つの 金武世界石」
の礎 建てて 金武ぬ青年達 40名
連れ立って ハワイんかい 旅立って いじゃん
👷
図11 第2回移民団の世話
ハワイに 着いた 当山や ハワイぬ様子 調査するため
に 移民シンカぬ 世話は 新助に 預けた
新助や 移民シンカが 働いている ハワイ島ホノカワ耕地んかい
出て 行った
此処は 雨もふらん 飲み水に 不足すん
処 えってーとぅ 下痢んでーぬ 病気が
広がった
なーうっぴ 生活 しーやっせん とぅくま 求めて
ビホヌア耕地に 移ったが 反対に ふまや雨が
多くて 脚気かかるん 人たち
出てきた
ハワイに 着いてあと 悪天候とぅ 病気
んかい 煩わされながら 頑張ってきた
金武ぬ青年達ぬん いい加減 弱ってきた
うぬままちや 移民シンカ 倒れると 考えた 新助や
移民シンカ ハワイ島から 船に 乗せて 第1回移民シンカが
働いていた オアフ島ぬ エワ耕地んかい 移す
くとぅに 決めた
オアフ島んかい 渡る たみにや 船賃
集めることと 税金 支払んでー
様々な 難儀仕事が あいたん
新助や 持ち前の 頭の 良さと
身の軽さで 船賃と 税金支払い
証文 掻き集めて 移民ぬ シンカ エワ耕地んかい
移すくとぅ 成功した
エワ耕地や 良い天気が 続いて 食べ物も
豊富えってーとぅ 病気も 回復し 金武ぬ
青年達や 持ち前の 力 出して
働らいて 生活も 豊かに なってぃ いじゃん
👸
図12 いよいよアメリカ本国へ
明治37年 1904年
第2回移民ぬシンカが 落ち着くのを 見届けて
ハワイ移民や なー 大丈夫でぃ 考えた 新助や
アメリカ本国かてぃ 渡り 頑張って みーぶせんでぃぬ
自分の夢 果たす時が ちゃんでぃ
感じた
明治37年 新助や ハワイから サンフランシスコんかい 渡った
皿洗いから 始めて コック バーテンでー
色々な 仕事しーがち あまふま 移って
行くうちに ニューメキシコ州んかい 着いた
朝の 4時から 夜の 9時までぃ 働き
続ける 生活 2年続けて お金
貯めた
貯めた お金 広い 土地 買って
家 建てた
土地 持った事で 好きな 時に
だーかてぃん 行ける 身分 手に 入れた
新助や 沖縄んかい 行こうと 思えば 何時
やてぃん 行ける 身分 手に いんたん
大正八年 メキシコとぅぬ 国境に近い ブロレー市んかい
移り レストラン 始めた
店は うみちか 繁盛しちー 大勢の
奉公人 雇う までぃ なっとぅいたん
平素の 生活んかい 使う 品とぅか
食べ物 売って 幅広く 商売を
始めた
✋
図13 海外協会設立に奔走
大正13年
第2回 ハワイ移民シンカが 落ち着いた たみに 沖縄
うてぃぬ 移民熱 うみちか 高まり 移民
希望する 人たちが 急に
増えてきた
明治40年 ウチナーや 日本ぬ中でも 指折りぬ
移民県かてぃ なっとぅいたん
那覇の 町や 移民ぬ 世話すん
商売人 溢れて 移民ぬ 奪い合い
激しくに なってぃちゃん
中には 嘘をついて しちー 移民 騙す
悪い 商売人 ちゃっさん 現れ
大きな 騒動に なっとぅいたん
うぬよーな 商売人から 移民守り 移民ぬ
手助け すんたみぬ 海外協会 立ち上げる
必要が あんでぃち 叫ばれる 様に なったん
北米日本人会とぅか 沖縄県人会でぃぬ 役員 勤めていた
新助や 大正13年 海外協会 たちあぎるんたみに ウチナーんかい
戻ってちゃん
寝る暇も ねーんあたい 役人とぅか 政治家
実業家んでー 色々ぬ 人たち 尋ねて
海外協会ぬ 必要 説得して いじゃん
新助ぬ うぬ 働きが 実 結んで 県議会うてぃ
海外協会設立総会 開かす くとぅ 成功した
海外協会ぬ 立ち上げに ゆてぃ 安心して 移民
すーぬくとぅ 出来るぐとぅ なってぃ 海外移民や 更に
広がって いじゃん
👪
図14 ロサンゼルスでの生活と捕虜収容所
昭和15年 1940年
教育に 念あいぬ 新助や 子供たちに 良い教育
受けさせる 為に ブロレー市ぬ 店
売り払いカルフォルニア州うてぃ 一番 大きい
学問の都ロサンゼルスんかい 移って ちゃん
新助や うまに ホテル建てて 店も始めた
ロサンゼルスんかい 移った その翌年 太平洋戦争が
始まって 1942年 アリゾナ州 ヒラ砂漠ぬ 捕虜収容所かてぃ
家族と 一緒に引き入れられた
焼けるような 暑さの 厳しい 砂漠ぬ
生活は 辛く苦しく 言葉では
言いにくい あたい 厳しかったが
家族と 一緒に 歯を食いしばって
堪えた
1945年 戦が 終わった 為に ロサンゼルスに
帰る 事が 許された
ロサンゼルスに 戻った 新助や 今度も
持ち前の 粘りと 頑張りで 再び
ホテル 建てた
うぬ ニューヨークホテルや ロサンゼルス やてぃん 指折りの
ホテルんかい なってぃ いじゃん
💥
図15 ひやみかち節を詠む
昭和28年 1953年
昭和28年 軍人とぅしち 沖縄んかい 渡って ういたん 息子から 沖縄や 戦いぬ 為に 思ったより はーら 荒れすさんだ場所に
なっとぅんでぃ 聞いた新助や ホテル 長男んかい 譲り 五十二年に 及ぶ 移民とぅしちぬ 生活 終えて 沖縄に 帰ってきた
沖縄に 戻り 荒れ果てた 生まれ郷里に 立った 新助や 50年余り前 当山久三が 思い焦がれていた
「何も 恐れない なんにでも 真っ直ぐ 立ち向かって行く 沖縄人ぬ 姿」 思い出して
うぃたん
あんちしち 荒れ果てた 生まれ郷土ぬ 立ち直しに
命がけで 立ち向かって いちゅん 沖縄人 励ます 意味 込めて 読んだ 歌が
「七転び 転でぃ ひやみかち 起きて
わした くぬ 沖縄 世界に 知らさ」ぬ ヒヤミカチ節 えん
👲
訂正:ひやみかち節は、ロサンゼルスで詠んだ歌だという
ことが紙芝居作成後に判明したので訂正します。
図十六 新助の老後
昭和二九年 新助や 越地んかい 家 建てた
家ぬ 周囲にや 後々 年寄の 憩う場所とぅしちぬ公園に なしぶせんでぃ
考えて 果物の木とぅか 草花植えた
家ぬ周囲で 取れた クニブ とぅか 桃 小学校んかい 送って 喜ばれる
事もあいたん
八十余ってから 乙羽山ぬ 開墾と 観光施設 作る 為に 村有地
三十年契約ち 貸して とぅらせーでぃち 申し出た
八十あまてぃぬ 年寄ぬ くちはきーえってーとぅ 新助ぬ 思いは 伝わらず
取り下げられた
自分は なんま 年寄あらんでぃち 九十あまてぃから 東南アジアんかい
旅行に 出た
大航海時代に ウチナンチュが 頑張った 処 見たい でぃぬ くとう
えたん
旅行から けーてぃちゃぬ 後ぬん 若い 人たーに 東南アジアかてぃ
移民すーし ましどぅーでぃ いゅんあたい 海外雄飛んかい かきるん
思いは 少しも 衰えては うらんたん
👳
「こらっ カマタ また おまえか」
「だって 校長先生 これがジラーとサンダー いじめるからだよ」
「えーひゃ カマタ またー やー れんなー」
「あんせー 校長先生 うりが ジラーとぅ サンダー しっぱ すーとぅ
れんどぅ」
「やりすぎだよ シゲルは 鼻から血を出しているじゃないか」
「しょうがない 今日は罰として職員室の留守番をしなさい」
「しーぢゅーさ えっさ シゲルや ぱなーから ちー いぢゃちゅいしが」
「しかたねん くーや ばちーとぅしちー 職員室ぬ やーばん せー」
👄
「えー いやだ 夜の学校は お化けが出るんだろう 一人では嫌だ」
「校長先生 僕たちも一緒に 留守番 します」とジラーとサンダーが言った
三人は 宿直室で泊まることになった
「えー ならん ゆるーぬ がっこうや キジムナーが いぢてぃすーしがー
わん ちゅいしや ならん」
「校長先生 わったーぬん まんな やーばん さーびん」
でぃ ジラーとぅ サンダーが いちゃん
みっちゃいや 宿直室かてぃ とぅまーるぬ くとぅに なったん
✋
「へー これが柱時計か」サンダーが言った。「カチ カチ動いてきちんと
時間を知らせるなんて凄いね」と ジラーが言った。
「どんな仕組みで動くんだろう」カマタが目を輝かして言った。
「そうだ 時計の中を開けて見てみよう」とカマタが言うと
「壊したら校長先生にまた叱られるよ」と ジラーとサンダーは止めた。
「へー ふりが ぱやーどぅけい なー」 サンダーが いちゃん
「カチカチ えーち まちげーらんぐとぅ じかん しらすしや
ちびらせんやー」でぃ ジラーが いちゃん
「ちゃんなーぬ しかきち えーちゅがやー」でぃ カマタが
みー ぴからち いちゃん
「えっさー とぅけーぬ なかー あきてぃ みっちーまー」でぃ
カマタが いちゃーとぅ
「こんしーねー 校長先生かてぃ またー ぬらりんどー」でぃち
ジラーとぅサンダーや とぅみたん
👀
「大丈夫バラした順番に部品に番号を打てば戻すのは簡単だ
ジラー僕がばらした部品を渡すから紙に順番を書いてサンダーに渡すんだ
サンダーお前はその紙を部品に貼って順番よく並べてくれ」
ぬーんあらんさ ばらちゃぬ 順番ち 部品かい 番号うちいば
むどぅすしや 簡単えっさ
ジラー わんが ばらちゃぬ 部品わたすとぅ はびに 順番かっち
サンダーかてぃ わたせー
サンダー やーや うぬかびん 部品かい はてぃ 順番に ならびれー
👧
動く仕組みが知りたい三人は胸をときめかせながら時計をバラしていった
えーくぬ しかき わかりぶせぬ みっちゃいや にー とんとん
しみがちー とぅけー ばらちいぢゃん
👃
「カマタ 動く仕組み分かったかー」とジラーが聞いた
「全然 分からん」とカマタは言った
気抜けした三人は しばらく モノも 言わずに ひっくり返っていた
気を取り直したカマタは バラした順番に部品を組み立てていった
「カマタ えーくぬしかき わかたんなー」
「てぃーちん わからぬ」でぃ カマタや いちゃん
ちるーぬぎたぬ みっちゃいや むぬん いやんぐとぅ ぴっけーりとぅたん
きー むちのーちゃん カマタやばらちゃぬ順番ち 部品
くみたてぃてぃ ぃぢゃん
👄すっかり元の姿かたちに戻った時計を見て ジラーとサンダーは大喜び
しかし カマタは泣きそうになっていた
時計が動かないのだ
むとぅぬ しがたかたちに むどぅたぬとぅけー みっち ジラーとぅ
サンダーや ちぇー うっさ
あんしが カマタや なきぎさー なっとぅいたん
とぅけーが えーかんばー
翌日 学校は朝から大騒ぎ
時計が動かないため授業の始めと終わりの合図ができないのだ
なーちゃー 学校や ひてぃみてぃからうーそーどー
とぅけーが えーかぬたみ 授業ぬ ぱじみとぅ わいぬ えーじ
ならんばー
「誰が時計を壊した」校長先生は顔を真っ赤にして言った
「時計をバラしてみようと僕が二人を誘いました」カマタは言った
「正直に話したことは褒めてあげよう。しかし、時計を壊して
みんなに迷惑をかけた罰は受けないといけない。
カマタ君は一週間ジラーとサンダーは三日間家でしっかり反省しなさい」
「たーが とぅけーこんちゃが」 校長先生や ちらー まっかーらーしちー
いちゃん
「とぅけーばらちみらー でぃ わんが たい かてぃ いやーびたん」
カマタがいちゃん
「えーぬぐとぅ ぱなちゃぬ くとうや ふみてぃ とぅらさー
あんしが とぅけー こんち むーるかてぃ 迷惑 かきたぬばちや
うきらんねー ならん
カマタ やーや一 1週間 ジラーとぅサンダーや 三日間 やーにんてぃ
しかーとぅ ちむー あらたみれー
👆
ウチナーを飛び出し 未知なる世界に 活躍の場を求めて行った
平良新助の 子供の頃の お話でした。
しけー かい がーすーぬばー むとぅみてぃ いぢゃん
平良新助ぬ わらびーぬ じぶんぬ
👦
今帰仁にも多くの民話があります。この読本では2つ紹介します。民話を通し今帰仁の文化に触れるとともに、今帰仁ふとぅーばの習得にも役立てましょう。
1. 越地に伝わる民話 首出石(くビーンぢゃいシー)
話者:喜屋武加代子
むかしの炬港には、イルカが寄ってきたそうです。
むかーしぬ てーなーとぅ にや ぴっとぅ が ゆてぃすーたんでぃ
ある年の事、たくさんのイルカが寄ってきたので、村中から大勢の人が集まり、イルカ狩りをしました。
あるとぅしー ぬ くとぅー ちゃっさげーら ぬ ぴっとぅ が ゆてぃちぇーとぅ
むらーぢゅー ちゃら ちゃっさん ぬ ちゅんちゃー が はちまってぃちー
ぴっとぅ がい ぱぢみたん
見物人もたくさん集まってきました。見物人の中には、祝女(ノロ)の子供もいました。
みーむんさー ぬん がぢまってぃちゃん
みーむんさー ぬ なはー ねー のろ ぬ くぁー ぬん ういたん
イルカ狩りが終わり、人々は帰っていきました。
ぴっとぅ がい が わーてぃ ちゅぬちゃー や むるー けーてぃ いぢゃん
しかし、祝女の子供は、いつまでたっても帰ってきませんでした。亡くなってしまったのです。
えーしが のろ ぬ くぁー や ひちーまでぃ たっちん けーてぃ ふんなたん
しがた ちぇーてんばー
怒った祝女は、「もう二度と炬港にイルカは寄ってくるな」と大声で叫び、石を二つ
投げました。
わぢーてーぬ のろ や 「なー またー とぅ てーなーとぅ かてぃ ぴっとぅ や
たちゆてぃちー や ならんどー」 でぃ ちゃっぴーげーら あびやーち
いしー たーち うんなぎたん
その石が首出石になりました。それ以来、イルカが寄ることはありませんでした。
ふぬ いしー が くびんぢゃいしー ち なったん
うんちゃーら や なましきてぃ ぴっとぅ が ゆてぃーすーぬ
くとぅー や ねーんなたん
👿
2. 古宇利に伝わる民話 ≪人類発祥伝説≫
話者:渡名喜一江
太古 この島に 男女 二人の 人が 棲んでいた。
うーむかーし うぬ しまー ねー いきがー とぅ いなーぐー とぅ
たい が くらーちゅたん
二人は 裸で 恥ずる事もなく 毎日 天から落ちる餅を食べ 何事もなく 養われて
その残りをも打ち捨て 暮らしていたが
たい や まるぱだっかー やしが ぱぢかせー ぬ くとぅや わーらぬ
いつの間にか 知恵が付いてその残りを貯え 又 蒲葵の 葉を採りて
裳を作り 恥を 匿すようになった。
その時から 天からの 餅は 落ちてこなくなり 二人は 自ら 苦しみて 食物を
索めねばならなくなった。
うんちゃーら てぃんとぅ ちゃら むーちー や ふてぃてぃ ふーぬぐとぅ
なってぃ たい や どぅなー ち あわーりぬだんだん しちー けーむん
とぅめらんねー ならん ぐとぅ なったん
うまーねーてぃ たい や ちむ むちけーてぃ 「とーとーめー さり とーとーめー
うふむーちー やとむーち うたびみそーれー あかだる ぷるーてぃ ふさぎみそーら」
でぃち うにげー しちゃーしが
むーちー や なー てぃんとぅ ちゃら ふてぃてぃ すーぬ くとぅ
や ねんなったん でぃ いいちたわとぅん
👬
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